導き出した理想のサイズ。
これだけは譲れない。幅30センチに満たない小さなバッグ。一般的な雑誌、A4書類、所有するMacBookすら収まらない。それでも、理想のサイズと断言できる。
何のために小さなバッグを作るのか。中に入れるモノ。自分のライフスタイル。今一度、自問自答してみた。
入れるモノ。
レザーウォレットにiPhone、充電器、時々ペットボトル(500ml)。腰元にジャラジャラと下げたキーホルダーも、時と場所によってはバッグに収めるだろう。
雑誌が入らない。
雑誌を購入する場所は、クルマで乗り付けたショッピングセンター内の書店がほとんど。ミニバッグを持つシーンではない。しかも、最近はAmazonで購入することの方が多い。雑誌が入る必要はない。
A4書類やMacBookが入らない。
最近のビジネスはペーパーレスだ。資料ならPDFで送ってもらえば、手元のiPhoneで閲覧できる。ここ1年、MacBookを持ち歩く機会は激減した。機能は制限されるが、外出先での仕事は軽量なiPadでこなせる。一番大きな12.9インチのiPad Pro以外は、入るようにする。
皆さんも、毎日の持ち物を思い出して頂きたい。意外と少ない、少なくても事足りることに気付くだろう。
大は小を、兼ねない。
基本はいつだってアメリカンカジュアルだ。作業着だったジーンズ、エンジニアのためのブーツ、戦う兵士のフライトJKT。すべてにおいて無駄の無い「機能至上主義」。これこそがアメリカンカジュアルの源流だ。
バッグも同じこと。持ち歩くモノが入れば、それでいい。それ以上は必要ない。「大は小を兼ねる」という言葉があるが、アメリカンカジュアルにおいては「大は小を兼ねない」のだ。
だから、幅29センチ、高さ21センチ。そして、マチ6.5センチ。これで決まりだ。
ライダースJKTの馬革を使う。
サイズは決まった。次は素材だ。フラットヘッドを代表するアイテム、それは完全オリジナルで製作される唯一無二の「ジーンズ」、そして、経年変化を楽しむ「ライダースJKT」だと個人的には思っている。
今回のプロジェクトで製作するミニバッグには、ライダースJKTに採用されるフルベジタブル鞣しの馬革を使う。世界でも数社しか存在しない、原皮から仕上げまでを一貫して生産できる一流タンナーにより、フラットヘッドのために鞣された馬革だ。
厚みのある馬革は表面が割れやすいが、独自開発のオイルに漬け込むことで、しなやかで強靭な馬革の開発に成功している。
レザーラヴァー絶賛の経年変化。
下地を茶色に染めた後に、ブラックに仕上げた「茶下地」の馬革は、使い込むことで表面が擦れ、ブラウンが顔を覗かせる。レザーラヴァーたちからも絶大な支持を集めている極上の経年変化だ。
上はオガワが所有するフラットヘッドの馬革ライダース。擦られたエッジは見事に下地のブラウンが現れ、威風堂々たる佇まいを見せる。
使い込めば使い込むほどに、下地のブラウンが現れ、荒々しい表情へと姿を変える馬革。今回製作するミニバッグには、最適にして最高の素材であることは言うまでもない。
独自設計のダイヤキルト。
オガワのアイデアやリクエストはすべて注ぎ込む。しかし、ストックバーグは世界中にその名を知られた一流のレザーファクトリーだ。培ってきた歴史やスタイルへのリスペクトも忘れてはいけない。ミニバッグの製作にあたり、「ストックバーグらしさ」をしっかりとプロダクトに反映させたかった。
茶下地の馬革を「大人のアメリカンカジュアル」に似合う表情へ、昇華させる。ダイヤキルトしかない。バイカー系ブランドなどが多用するダイヤキルト。内部にウレタンなどを挟み込むことで誕生する立体的な意匠だ。
一見すると、どのブランドのダイヤキルトも同じに見えるが、ストックバーグでは試作に試作を重ねて導き出した、独自の角度、大きさ、膨らみによるダイヤキルトを採用する。ワイルドでありながら妖艶。相反する要素を見事に融合した、ストックバーグ、そしてフラットヘッドだけのダイヤキルトだ。
すべてのディテールには、理由がある。
縫製糸の色も難しい。オガワがリクエストした糸色。それは、漆黒の馬革のクールな雰囲気に合わせた「こげ茶」。上写真の右の糸だ。何の疑いもなく選んだ「こげ茶」だったが、完成したファーストサンプルはオガワのイメージとは微妙に異なる結果となった。
ハンドルとバッグ本体を繋ぐ「根革」(ねかわ)と呼ばれるパーツ。ファーストサンプルではバッグの大きさに合わせて小さい「根革」を採用することにした。この選択が結果的に、フラットヘッドのモノ作りの「凄み」をオガワに教えてくれることになる。
上記の「糸色」「根革」についての詳細は次回に解説する。
打ち合わせの席、すべてのリクエストをストックバーグの宮坂氏に伝えた。その場でペンを走らせ、手書きのイメージ図が完成。気分が高揚する。
ファーストサンプルの製作をお願いし、ひとまず、横浜の自宅へ戻った。